イスラム王朝

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    イスラム王朝

    イスラム王朝
    イスラム王朝の時代
    610年頃にムハンマドがおこしたイスラム教は、イラク周辺の地域に急速に広まった。
    第一次世界大戦に至るまでの千年以上の間、イラク地域は、アラブ系のイスラム帝国、モンゴル系のイルハン朝、トルコ系のオスマン帝国など様々なイスラム王朝の大帝国が支配した。
    アラブによる征服とイスラム帝国
    イスラム帝国初期の正統カリフ時代
    ホスロー2世がビザンチン帝国に敗戦した後、サーサーン朝は消耗し、国内は混乱した。
    アラブに接するイラク南部の国境線の守備力も下がった。
    現在のイラク南部には湿地帯が広がっているが、この混乱期に荒廃したと言われている。
    610年頃、ムハンマドは現サウジアラビアのマッカ(メッカ)郊外でイスラム教を興した。
    ムハンマドが作ったイスラム共同体は正統カリフに引き継がれてアラブ人を中心とするイスラム帝国が誕生し、急速に拡大した。
    サーサーン朝には、イスラム帝国の侵攻に耐える力が残っていなかった。
    636年頃のカーディシーヤの戦いでイスラム軍がペルシアの主力軍隊を破り、そのままペルシア帝国の首都クテシフォンを奪い取った。
    638年には、イスラム軍はクバルバラ地方(現イラク)をほとんど征服した。
    サーサーン朝の皇帝ヤズデギルド3世は651年に暗殺され、サーサーン朝は名実ともに滅びた。
    656年に第4代正統カリフとなったアリー・イブン=アビー=ターリブのとき、首都をイラクのクーファに移したが、内部の対立によってアリーは661年に暗殺された。
    アリーの暗殺後、ウマイヤ朝が成立し、首都をシリアのダマスカスに移して世襲王朝を築いた。
    イスラム帝国支配下のイラク地域はイラクの呼び名で知られるようになり、アラビア半島やマズン(現オマーン)から多くのアラブ人が集団移住してきた。
    ウマイヤ朝では、イスラム教徒(ムスリム)であるアラブ人が異民族を支配した。
    各地に移住したアラブ人は戦士として俸給を受け、ミスルと呼ばれる新しい軍営都市を築いて集団生活した。
    イラクにおいては、古バビロンの近くのクーファと南部のバスラにミスルが築かれ、また、北東イラクのモースルがイスラム教徒の政治と軍事の重要拠点になった。
    非アラブ人だけが人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負った。
    8世紀半ば、イスラム帝国のアッバース朝が起こり(これをアッバース革命と呼ぶ)、イラクのバグダードを帝国の首都とした。
    この頃、イスラム帝国は、西は北アフリカ、東は中央アジア、インドまで勢力を広げて、イスラム国家としては過去最大の版図を実現した。
    王朝の初期にはアッバース革命に参加したイランのペルシア人たちが政権において官僚として活躍し、地方でもアラブ人の絶対支配体制が解消されてムスリムの原則的な平等が実現した。
    このため、非アラブ人はイスラムに改宗すれば税制上のメリットが得られるようになり、かえってアラブ化・イスラム化が進むことになる。
    9世紀に入ると地方が自立し始め、10世紀には北アフリカのファーティマ朝、アンダルスの後ウマイヤ朝がそれぞれ独自のカリフを自称し、イスラム国家は分裂時代に入った。
    これ以後、イスラムを統一する王朝は実現していない。
    イラク地域においては、アッバース朝のカリフは傀儡の存在となり、実質的な政権はブワイフ朝、アラブ系のハムダーン朝、テュルク(トルコ)系のセルジューク朝などのイスラム王朝に移り変わった。


    モンゴルによる支配

    モンゴルによる支配
    14世紀のイルハン朝
    13世紀に、モンゴルのチンギス・ハーンがモンゴル帝国を起こし、西シベリア、中央アジア、中国に版図を広げた。
    フレグが率いるモンゴル軍はイスラム諸国に侵攻し、1258年には、イラクに侵攻してバグダードのアッバース朝を征服した。
    これによりイスラム帝国は滅亡した。
    フレグはイランに留まり、西アジアを支配する自立政権、イルハン朝を建設した。
    イルハン朝の首都は現イランのタブリーズに置かれ、イランを中心に、アム川からイラク、アナトリア東部までを支配した。
    モンゴル研究者には、フレグ一門のウルス(国家)という意味で、イルハン朝をフレグ・ウルスとよぶ者も多い。
    当初、イルハン朝はビザンツ帝国と友好を結び、親キリスト教だった。
    しかし、1295年、モンゴル部族にも増えつつあったイスラム教徒の支援を受けて、ガザンが第7代目ハンに即位し王朝の諸制度をイスラム化したため、イルハン朝はイスラム王朝に変わっていった。
    1335年、イルハン朝の中心地であるアゼルバイジャンのタブリーズ地方(現イラン)を巡って、イルハン朝の有力者の間で争いがおこった。
    ジャライル部のシャイフ・ハサン(大ハサン)とスルドス部の同名のシャイフ・ハサン(小ハサン)とが争い、1338年、スルドス部の小ハサンが勝利した。
    大ハサンはバグダードを中心とするメソポタミア平原に撤退し、1340年、イラクを中心に自立してジャライル朝をおこした。
    この後、大ハサンの子のシャイフ・ウヴァイスはタブリーズを奪還して、ジャライル朝の版図を旧イルハン朝の西半まで広げた。
    ティムール没時のティムール朝(1405年)同じ時期に、中央アジアにおいては、モンゴル系遊牧勢力を統合したティムールが、ティムール朝(ティムール帝国)と呼ばれる支配を確立した。
    ティムールは周辺の諸勢力を次々と支配下におさめ、1390年頃にはイラン・イラク地域へと進出してきた。
    ジャライル朝は、黒羊朝と呼ばれるトルコ系イスラム王朝と結んでティムールに対抗したが、敗退し、バグダードを奪われた。
    ティムール帝国は、西はアナトリア半島、東は東トルキスタン、インドまで広い版図を実現したが、ティムールの没後は急速に動揺し、分裂していった。


    オスマン帝国
    トルコによる支配とオスマン帝国

    トルコ系イスラム王朝の黒羊朝は、ティムールに敗れていったんは勢力を失った。
    しかし、1404年にティムールが没すると勢力を盛り返し、アゼルバイジャンのタブリーズを奪還し、さらにジャライル朝の残党を滅ぼしてバグダードを占領し、イラクを支配した。
    1466年には、白羊朝とよばれるトルコ系イスラム王朝が黒羊朝を破り、支配権を持った。
    白羊朝は、東部アナトリアからイラク、アゼルバイジャン、イラン西部におよぶ帝国を築いた。
    その後、イラクの大部分は、1501年にイランに起こったサファヴィー朝とよばれるイスラム王朝の支配を受けた。
    サファヴィー朝は、イラン・イラク地域を支配した王朝としては初めてシーア派の一派十二イマーム派を国教としたので、住民の多くがシーア派となった。
    一方、13世紀末にアナトリア西北部で建国したトルコ系のオスマン帝国は、1453年、ビザンツ帝国を滅ぼした(コンスタンティノープルの陥落)。
    これ以後、コンスタンティノープルはオスマン帝国の首都となり、やがてイスタンブルとよばれるようになる。
    オスマン帝国は、西はモロッコから東はアゼルバイジャンに至り、北はウクライナから南はイエメンに至る領域を支配した。
    16世紀には、オスマン帝国はサファヴィー朝を破りイラクはオスマン帝国の一部となったが、その後もこの地域を巡る両者の係争は続いた。
    サファヴィー朝はアッバース1世時代の1623年にはバグダードをオスマン帝国から奪取し、1638年まで支配することに成功している。
    このサファヴィー朝による支配の後、イラクは再びオスマン帝国の支配下に入り、その支配は第一次世界大戦まで続いた。
    18世紀には土着化したマムルーク出身の総督たちが州の実権を握り、イスタンブルの中央政府から半ば自立した支配を行ったが、19世紀に入ると中央集権化が図られ、タンズィマートと呼ばれる改革の結果、現在のイラクに相当する地域はモースル、バグダード、バスラの3州に再編された。
    またバグダード州の総督を務めたミドハト・パシャのように、州の総督も中央から官吏が派遣されるようになった。
    このような中央集権化の試みは都市部ではある程度成功したが、一方で地方の実力者である部族の首長などには総督の力はあまり及ばず、後にオスマン帝国の支配を離れてイギリスを頼り、クウェートの首長となるサバーハ家のような存在も残る結果となった。
    18世紀以降、産業革命が急速に波及する西欧諸国に比べオスマン帝国の経済力は劣勢となっていたが、19世紀以降オスマン帝国への西欧諸国の経済的進出は激しさを増した。
    それはイラクにおいても例外ではなく、シャッタルアラブ川の航行権やバグダード鉄道計画など、西欧諸国への様々な利権の供与が行われた。
    また、フランス革命以降の民族独立の機運は、バルカン半島の諸地域だけではなくイラクやシリア地方などのアラブ地域にも、徐々にではあるが着実に波及しつつあった。
    第一次世界大戦では、オスマン帝国はドイツとの同盟に基づき中央同盟国側で参戦するものの、この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされた。
    イギリス軍がオスマン帝国に侵攻すると、イラクも戦場となった。
    クートの包囲戦などいくつかの重要な防衛線では勝利を収めるものの、劣勢を覆すことができず、1917年にはバグダードが陥落し、1918年にオスマン帝国は降伏した。
       

    君主制イラク
    近代史
    君主制イラク
    イラク王国参照
    サイクス・ピコ協定により、イラクはオスマン帝国から分割され、フランスとイギリスの勢力下に治められた。
    1920年11月11日、イラクは国連からイギリスに委任統治され、イギリス委任統治領イラクと呼ばれることになった。
    一方でイギリスは、1915年には、フサイン=マクマホン協定によってアラブの独立を認めていた。
    この協定とサイクス・ピコ協定とは矛盾しており、この矛盾が後に中東の混乱の一因となった。
    イラクの政体はハーシム家の君主制となった。
    1921年に初代国王となったファイサル1世は、メッカのスンナ派ハーシム家の一員で、第一次世界大戦中はオスマン帝国に対抗してアラブ独立運動を指導してきた。
    イラク内には多様な民族・宗教の集団があり、特に北部のクルド人は独立を強く求めたが、その意見はイギリスの政策にほとんど反映されなかった。
    その結果、特に1920年から1922年にかけて多くの内乱が起きたが、イギリスによって鎮圧された。
    1927年、キルクーク近郊で大規模な油田が発見されたことにより、イラク経済は改善された。
    ハーシム王家とスンナ派指導者は中央集権化を進め、1932年、イギリスの間接支配下ではあるが、イラク王国として正式に独立した。
    当時、クウェートはイギリスが統治していたが、ハシーム王家は「歴史的にクウェートはイラクに所属している」と主張した。
    1930年代に入ると反英運動が高まりをみせ将校や王族にまで広がった。
    1941年、4名の軍事指導者がラシッド・アリ・アル=ガイラニを首相にすえ、完全な自治を求めてクーデターを起こしたが、利権を脅かされたイギリスは英印軍とヨルダンのアラブ軍戦力を指揮してイラクに侵攻し、再びハシーム王家の政権を確立した。
    1945年、イラクは国際連合に加盟し、アラブ連盟の設立メンバーとなった。
    同じ年、ムスタファ・バルザーニが指導するクルド人が自治を求め反乱をおこしたが、失敗し、バルザーニの一党はソビエト連邦に逃れた。
    1948年、イラクなどアラブ5カ国は新しく建国されたイスラエルを承認せず、第一次中東戦争が勃発した。
    戦争は1949年5月まで続いたが、このときの停戦協定にイラクは署名していない。
    戦争によってイラク経済は悪化した。
    1956年、ソ連に対抗することを目的に中央条約機構が発足した。
    機構本部はバグダードに設置され、イラク、トルコ、イラン、パキスタン、アメリカ、イギリスが参加した。
    エジプトのガマール・アブドゥン=ナーセル大統領は、アラブにイギリスの勢力が残ることを嫌って機構に反対し、イラク君主の正当性にも懐疑を唱え始めた。
    1958年2月、エジプトとシリアが合併しアラブ連合共和国が樹立されたことに対抗して、イラクとヨルダンとは、ハーシム家君主国家同士による同盟を提起した。
    イラクは、この同盟にクウェートの参加を望んだが、クウェートの独立を認めないイギリスと対立することになり、結果としてイラク君主は後ろ盾を失った。

    熟女
    イラク共和国
    ナーセル大統領に感化され、アブド・アル=カリーム・カーシム准将とアブド・アッサラーム・アーリフ大佐が率いる自由将校団がクーデターを起こし、1958年7月14日、ハーシム君主制は終焉した。
    君主ファイサル2世と摂政アブドゥル=イラーフは処刑された。
    新政府はイラクを共和制とし、中央条約機構からは脱退した。
    この後、カーシム首相はエジプトと距離を置いたため、親エジプト派と対立した。
    親エジプト派の抵抗を抑えるために、カーシム首相はソ連に亡命中のクルド人指導者バルザーニの帰国を許可し、さらに、親エジプトのアーリフを罷免し投獄した。
    1961年、イギリスはクウェートを独立させた。
    イラクはクウェートの支配権を主張したが、イギリスはこれに反発してクウェートに軍を派遣した。
    1963年2月、クウェート支配を主張するカーシム首相は暗殺され、変わりにバアス党が軍事政権を作った。
    1963年10月になって、イラクはクウェートの自治を承認した。
    バアス党が政権を作った9ヵ月後、アブド・アッサラーム・アーリフ大統領は、政権内部のクーデターにより、バアス党を駆逐した。
    1966年、アーリフ大統領はヘリコプター事故で死亡し、彼の兄アブド・アル=ラフマーン・アーリフが大統領となった。
    1968年7月17日、バアス党が巻き直しの無血クーデターに成功した。
    アフマド・ハサン・アル=バクル将軍は大統領となるとともに、イラクの最高意思決定機関である革命指導評議会(RCC)の議長となった。
    1968年の革命後、イラク経済は急速に回復した。
    革命前は歳出の約90%を軍事費に投入していたが、バアス党政権は農業と産業を優先した。
    採油はイギリスのイラク石油会社が独占していたが、新たにフランスの石油会社ERAPも採油権を得た。
    この後、イラク石油会社は国営化される。
    バルザーニが指導するクルド人の内乱は、1961年以来続いていた。
    バアス党のサッダーム・フセインが対策の責を負い、1970年、クルド人とイラク政府は政治的に和解した。
    1970年代になっても、イラクとクウェートとの境界紛争が多くの問題を引き起こした。
    さらに、イランがホルムズ海峡の諸島を支配していることが、イラクにとって脅威となっていた。
    イランとイラクの境界紛争について1975年5月6日にアルジェの合意が結ばれたが、この和解は一時的だった。
    1972年、イラクの代表団がモスクワを訪問した。
    同年、アメリカとの国交が復活した。
    この時期は、ヨルダン、シリアとの関係も良好だった。
    1973年の第四次中東戦争において、イラク軍はイスラエル軍に対抗して参戦した。
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