イラクの歴史

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    イラクの歴史

    イラクの歴史
    この項には、イラクについて、先史時代から現代に至るまでの地域史を述べる。
    イラク地域は、古代史ではメソポタミアとよばれた。
    世界最古の文明であるメソポタミア文明が栄え、シュメール、アッカド、アッシリア、バビロニアなどの古代国家がこの地を支配した。
    紀元前6世紀頃より、この地域は広大なペルシア帝国の一部となったが、イラク地域は帝国の主要地域で、帝国時代の大半ではイラク地域に首都が置かれた。
    7世紀以降はこの地域は急速にイスラム化し、イスラム帝国やオスマン帝国などの大イスラム王朝の一部となった。
    第一次世界大戦後にイラク国家はまずは君主制で独立し、やがて共和国となった。
    1990年代以降、湾岸戦争、イラク戦争の二度の戦争の後、現在は新しく民主議会選挙による政府が発足している。
     
    先史時代

    約6万年前のイラクには、ネアンデルタール人が住んでいた。
    当時、ネアンデルタール人は、ヨーロッパを中心に西アジアから中央アジアまで分布していた。
    イラク北部のシャニダール洞窟で化石が発掘されているが、同時に数種類の花の花粉が発見されたことから、ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を添える習慣があったという説がある。
    DNA解析などの研究に基づき、ネアンデルタール人と現生人類との間には直接のつながりは無いとする説が有力である。


    古代史

    古代史
    現在のイラクとほぼ同じ地域が、古代史ではメソポタミアと呼ばれ、世界最古の文明であるメソポタミア文明が栄えた。
    メソポタミア文明は、メソポタミア南部のシュメールから始まり、やがて北部に広がっていった。
    メソポタミア地方は、シュメール、アッカド、アッシリア、バビロニアなど多くの文明によって征服された。
    現イラクはチグリス川とユーフラテス川が形成した沖積平野にあるが、ここから西シリア、エジプトにかけての地域は、土壌が肥沃で多くの古代文明が生まれたので、古代史において肥沃な三日月地帯と呼ばれる。
     
    初期のメソポタミア文明

    メソポタミアで最初に文明を築いたのは、シュメール人を中心とした人々である。
    シュメール文明は、メソポタミアの南部、チグリス川とユーフラテス川の下流域に生まれた。
    シュメール人の民族系統は不明であり、その起源や周辺諸民族との関係は様々な技術を発明した。
    特に、紀元前3500年頃には楔形文字を発明し、粘土板に残している。
    紀元前3千年紀に入るまでには、言語や宗教的な同質性を基盤としたシュメールという統一概念が形成されていた。
    またシュメール人とともにセム語を喋る人々もこの文明の重要な担い手であった。
    メソポタミア南部は文字による記録が残される最初期からシュメール語とセム語のバイリンガル地帯であった。
    紀元前2700年頃には、下流域にウル、ウルク、ラガシュなど多くの都市国家が形成された。
    メソポタミア文明の発達につれて、周辺地域との関係も記録に残されるようになり、相互の関係が明らかとなり始める。
    現在のイラン西部ではエラム人が発展した。
    エラム人は早くからシュメール人と接触し、古いシュメールの神話の中にはエラム人が度々登場する。
    これ以後、紀元前6世紀までメソポタミアの様々な王朝と互いに征服を繰り返した。
    メソポタミア南部、シュメールの北方地方では古くよりセム系諸語を話す人々が優勢であった。
    彼らはやがて全メソポタミアを征服したサルゴンの建てたアッカドにちなみアッカド人と呼ばれる。
    アッカド語はオリエント全域で使われる共通語として発達した。
    紀元前2千年紀後半、アッカド王サルゴンはシュメールの都市国家を征服し、メソポタミア北部も征服して、初めてメソポタミア統一を果たした。
    アッカド帝国は中心都市をアッカドに定めて、版図を地中海やアナトリア半島まで広げた。
    アッカド帝国は初めて中央集権を確立したので、交通と交易は発展し、メソポタミアの経済的・文化的統一も進んだ。
    勢力を誇ったアッカド帝国だが、周辺民族との戦いやシュメール都市国家の相次ぐ反乱によって消耗し、紀元前2200年頃に滅亡した。
    紀元前2125年頃、メソポタミア南部にあるシュメール人の都市国家ウルがメソポタミアの支配を獲得し、ウル第三王朝が建てられた。
    ウルは、現在知られている最も古い法典であるウル・ナンム法典を定めた。
      

    古バビロニア
    古バビロニア

    次にメソポタミアで勢力を持ったのは、現シリア地方から移住してきたセム語派のアムル人だった。
    ウル第三王朝はアムル人やエラム人の侵入により、紀元前2004年頃に滅亡した。
    その後紀元前1750年頃まではイシン・ラルサ時代と呼ばれ、イシン、ラルサ、バビロニアなどアムル人王朝がメソポタミアの覇権を競い合った。
    アムル人がメソポタミアに建てた王朝はシュメールの後継者の意識を強く持ち、政治的、宗教的にはシュメールやアッカドの文明に同化していった。
    その後、メソポタミアはバビロンのハンムラビ王(紀元前1792年−紀元前1750年)によって再統一され、バビロニア王国(古バビロニア、またはバビロン第1王朝)として繁栄した。
    「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典はハンムラビ王によって作られた。
    古バビロニアはシュメールからペルシャ湾まで、チグリス・ユーフラテス川のほぼ全流域を統治し、約200年の間続いた。
    紀元前1595年、アナトリア半島(小アジア)のヒッタイト(ヒッタイト古王国)が東方に遠征し、古バビロニアは滅ぼされた。
    ヒッタイト人はインド・ヨーロッパ語族に属する言語を用いた人々である。
    遠征直後にヒッタイト王ムルシリ1世が暗殺され、ヒッタイトが衰退したので、メソポタミアの統治は混乱した。
    メソポタミア北部ではフルリ人がミタンニ王国を建立した。
    メソポタミア南部のバビロニア地域は、紀元前1475年頃までに、カッシート王国(バビロン第3王朝)によって統一された。
    カッシート人の出自は不明な点が多い。
    これによりオリエントは、ミタンニ王国とカッシート王国、北のアナトリア半島のヒッタイト、西のエジプトと、4強国が支配する状態になった。
     
    アッシリア帝国の成立

    次にメソポタミアの支配者の座についたのはセム語派に属するアッシリア人だった。
    アッシリアはミタンニ王国の東に位置し、これまでミタンニ王国に支配されていた。
    アッシリアは、紀元前1340年頃ミタンニを破って事実上併合し、紀元前1235年頃バビロニアのカッシート王朝を打倒し、メソポタミアの支配を獲得した。
    その後、反乱が起きてアッシリアの王朝はバビロニアから追われた。
    バビロニアにはイシン第2王朝(バビロン第4王朝)として知られる王朝が生まれた。
    この王朝の王の中では、エラムとの戦いで勝利を収めたネブカドネザル1世(紀元前1119年―紀元前1098年)について多くの文学作品が残されている。
    紀元前10世紀頃、アッシリアは勢力を盛り返した。
    アッシリアの歴代の王は領土を拡大し、特に紀元前744年に即位したティグラト・ピレセル3世はバビロニアを含め周辺諸国を征服して領土を広げ、アッシリア帝国と呼ばれるようになった。
       

    セレウコス朝シリア
    セレウコス朝シリア

    紀元前331年、アケメネス朝ペルシア帝国は、アレキサンダー大王の遠征によって滅亡した。
    アレキサンダー大王は古代マケドニア王国(現ギリシャの一部)の国王で、短期間のうちにインドに至るまでの広い範囲を征服し、紀元前323年にバビロンで没した。
    アレキサンダー大王の死後、後継者争いが起こった(ディアドコイ戦争)。
    この結果、バビロニアを基盤にするセレウコス1世が、イラン、シリアの支配も獲得し、ギリシア系のセレウコス朝シリア(シリア王国)を起こした。
    以後2世紀の間、現イラク地域はセレウコス朝の支配下に置かれる。
    セレウコス朝の首都は、初めはバビロンの北の新都セレウキアに置かれた。
    首都は間もなく北シリアに移されたが、その後もセレウキアは首都アンティオケイアにならぶ主要都市として繁栄した。
     
    パルティア

    紀元前3世紀中ごろ、セレウコス朝の支配力が衰え、イラン東北地方のパルティアと呼ばれるイラン系遊牧民が独立した。
    パルティアは、紀元前141年までにはバビロニアの主要都市セレウキアを征服し、ミトリダテス2世(在位:紀元前123年頃 - 紀元前87年頃)の時代にはメソポタミア(現イラク)からインダス川までを支配する大国となった。
    パルティアの首都は、現イラクのバグダード南東にあるクテシフォンに置かれた。

    出会い
    サーサーン朝ペルシア帝国

    この後、現イランのペルセポリスで独立したアルダシール1世が、226年にパルティアを滅ぼしてサーサーン朝ペルシアを起こし、230年には現イラク地域を支配下に収めた。
    首都は現イラクのクテシフォンに置いた。
    この王朝は、7世紀にアラブ系イスラム教徒(ムスリム)に占領されるまで続く。
    現イラク地域はまだクバルバラと呼ばれていて、その中をさらにミシャン(Mishn)、アスリスタン(Asuristn)、アディアベーン(dibene)、下メディアに区分されていた。
    サーサーン朝の南部と西部のアラビアの砂漠にはアラブ部族が住んでいて、サーサーン朝の支配を受けながらラフム朝ヒーラ王国が治めていた。
    サーサーン朝の北部(イラクの北部)はビザンチン帝国に接していた。
    サーサーン朝とビザンチン帝国と衝突を繰り返しており、イラク北部はビザンチン帝国に支配されることもあった。
    602年、ホスロー2世はビザンチン帝国に最後の大規模な遠征を行った。
    前半にはビザンチンの首都コンスタンティノポリスの間近まで迫ったが、後半は戦況が反転し、627年から628年には、ヘラクレイオス帝率いるビザンチン軍がサーサーン朝の首都クテシフォンを奪取した。
    このときはビザンチン軍はすぐに撤退したが、サーサーン朝の国力は大きく消耗した。
    サーサーン朝の時代のイラク地域には、ペルシア人(イラン人)、アラム語系住民の小作農、牧畜を営むアラブ人、ビザンチンから連れ帰ったギリシャ人奴隷など、多くの民族が暮らしていた。
    ザグロス山脈のふもとにはクルド人が住んでいた。
    サーサーン朝の国教はゾロアスター教だが、信徒は主にペルシア人に限られていた。
    残る住民の多くはキリスト教徒だった。
    キリスト教徒は単性論派とネストリウス派とに分かれていて、最も広まったのはネストリウス派だった。
    マニ教、マズダグ教の住民もおり、古都バビロン周辺にはユダヤ教徒が住んでいた。
    さらに、国土の南部には、キリスト教からは異端とみなされている古バビロニアのマンダ教などグノーシス主義の諸派の教徒がいた。
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