エラム

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    エラム

    エラム
    古エラム時代
    この時代から、メソポタミア側の歴史史料にエラムについての情報が載り始める。
    しかしその記述は多分に伝説的なものであり、編年を明らかにするのは不可能である。
    シュメールの伝説には、キシュの王エンメバラゲシがエラムを征服し戦利品を獲得したというものがある。
    また、ウルクの王エンメルカルはエラムに降伏を迫るためにエラムの領主エンスクシュシルアンナへ使者を送り、エラムを服属させたというものもある。
    また、古エラム時代のアワン朝の王はシュメールを3代に渡って支配したと伝えられる。
    だがこれらの説話にどの程度史実が含まれているのかは全くわからない。
    アワン朝の後にはハマズィ朝が再びシュメールを支配したという。
    この他シュメールの都市国家の中にはその初期にエラムの支配を受けたという伝説を持ったものが少なくない。
    具体的な政治史の復元は困難ながら、シュメール時代の初期からエラム人がメソポタミアと接触を持っていたことは確実である。
    飛躍的に情報が増えるのはエラムに侵攻してこれを支配したアッカド帝国と、その後のウル第3王朝時代からである。
    アワン朝(シュメールを支配したという王朝ど同一であるかは不明)最後の王クティク・インシュシナクはウル第3王朝の創設者ウル・ナンムと同時代人であったと考えられる。
    彼はスサとアンシャンを征服して、イラン高原における初の統一的な政治勢力を形成した。
    しかしアワン朝は間もなくウル第3王朝のシュルギ王の攻撃を受けて崩壊した。
    アワン朝と入れ替わるようにエラム史に登場したシュマシュキ朝は当初はウル第3王朝や異民族の間断無い攻撃に曝され弱小であったが、やがてウル第3王朝の弱体化に乗じて勢力を拡大し、ウル第3王朝は婚姻政策によってシュマシュキ朝を懐柔しようとするようになった。
    だがシュマシュキ朝が、全エラムを統合していたのかどうかはよくわかっていない。
    紀元前2004年シュマシュキ朝の6代目の王キンダットゥはウルを攻撃し、ウル第3王朝を滅ぼした。
    だが、既にウル第3王朝より離脱し、その実質的後継者となっていたイシュビ・エッラのイシン第1王朝によって破られ、ウルを奪回された。
    その後シュマシュキ朝はメソポタミア各地に成立したアムル系王朝と対立した。
    特にラルサなど南部メソポタミアの王朝はスサなどの支配権を再び確保しようとしてエラムと戦闘を続けた。
    紀元前19世紀頃にはシュマシュキ朝にかわってエパルティ朝がエラムの支配権を握った。
    この王朝はエラムの主要部分を含んでいたと考えられるが、3代目の王以降スッカル・マフ(シュメール語で大総督の意)という称号を用いており、メソポタミアの王朝と何らかの宗属関係があったかもしれない。
    また、ラルサではスサ北部の別のエラム人国家の王クドゥル・マブクがラルサ王ツィリ・アダドを追放し、「アムルの父」を名乗ってその支配権を獲得するなどしていた。
    彼とその後継者はバビロン第1王朝のハンムラビ王の時代まで、たびたびバビロンと戦火を交えている。
    だが、こうしたエラム人のバビロニアでの影響力は長続きしなかった。
    その後インド・ヨーロッパ系の集団や、カッシート人、フルリ人の移動などに伴う混乱によってか、エラムは混乱に陥ったらしく記録は少ない。
    だが、この時代にエラム各地にフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出た。


    中エラム時代

    中エラム時代
    エラムに再び強力な政治的統合体が現れるのは紀元前16世紀頃から紀元前15世紀頃にかけて台頭したウンタシュ・ナピリシャ王や、「アンシャンとスサの王」を称したイゲ・ハルキ王の時代であり、彼の時代以降を中エラム時代と称する。
    イゲ・ハルキは古エラム時代に侵入したフルリ人と何らかの関係があると考えられている。
    イゲ・ハルキ朝の王は10人、またはそれ以上いると考えられるが、彼らとバビロニアとの交渉が記録に残っている。
    紀元前1320年には、一時カッシート朝(バビロン第3王朝)の王クリガルズ2世に服属したが、紀元前1230年頃には、同王朝のカシュティリアシュ4世を破り、更にキデン・フトゥラン王はアッシリアの圧迫によって弱体化したカッシート朝に二度にわたる攻撃をかけてこれを滅亡させた。
    しかし間もなくアッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世と戦って破れ、バビロニアから駆逐された。
    紀元前13世紀末から紀元前12世紀にかけて新たにシュトルク朝がおこり、バビロニアに再び進出を図った。
    シュトルク・ナフンテ1世は、バビロンを陥落させてバビロニアを支配下におくことに成功した。
    マルドゥク神像を略奪した他、ハンムラビ法典の石碑もこの時スサへ持ち帰り、後に現代の考古学者によってスサで発見されることになる。
    アッシリアの政治混乱ともあいまって、エラムはこの時期オリエントで最も強大な国家となっていった。
    だが、間もなくバビロニアに新たに勃興したイシン第2王朝(バビロン第4王朝)の英王ネブカドネザル1世によってエラム軍は打ち破られ、スサを占領されるとともにマルドゥク神像を奪還された。
    以後300年にわたる弱体化と混乱の時代を迎えることになる。
    エラムはこの時代、バビロニアから著しい文化的影響を受けた。
    文書史料に楔形文字が多用された他、アッカド語を用いた記録も数多く残された。
    バビロニア式の巨大なジッグラトも建築された。
    ただし、エラム独自の相続制度は維持され、シュトルク朝もまた兄弟相続を基本としていた。
      

    新エラム時代
    新エラム時代
    ネブカドネザル1世の攻撃以降300年にわたる記録の無い時代が続く。
    僅かにバビロニアとアッシリアの戦いに際して、バビロニア王マルドゥク・バラシュ・イクビを助けて参加したことなどが記録されている。
    こういった時代にようやく終止符が打たれ、エラムに新たな時代が訪れるのは紀元前8世紀頃のことである。
    この頃新たにフンバンタラ朝が成立して、一応の安定が達成された。
    当時急激に拡大していたアッシリアに対抗するために、エラムはバビロニアを熱心に支援した。
    バビロニアは紀元前729年にティグラト・ピレセル3世によって征服されていたが、その後エラムの支援の元でメロダク・バルアダン2世がアッシリアに反乱を起こし自立していた。
    アッシリア王サルゴン2世はメロダク・バルアダン2世を攻撃して再びバビロニアを征服したが、この時敗走したメロダク・バルアダン2世はエラムに逃げ込み、エラム人は彼を匿った。
    そして、紀元前703年頃、再び彼をバビロニア王に付けてアッシリアから離反させることを試み一時成功した。
    だが、センナケリブ王の遠征によってバビロニアは再併合された。
    しかし尚もエラムはバビロニアの反乱勢力を支援して介入を続けた。
    新たに王位についたフンマ・メナヌ3世は紀元前694年には、バビロニアの反乱を支援して、アッシリアの王子、アッシュール・ナディン・シュミを捕縛することに成功し、再びバビロニアを独立させた。
    これは更なるセンナケリブ王の遠征を招き、一時的にはアッシリア軍に対抗したものの、最終的にバビロニアはアッシリアの支配下に入りバビロニアに対するエラムの影響力確保は失敗した。
    その後もアッシリアとバビロニアを巡って争いを続けた。
    アッシリア王アッシュールバニパルが、兄弟のシャマシュ・シュム・ウキンと兄弟戦争を戦った際には、シャマシュ・シュム・ウキンを支援して再びバビロニアを離反させることを狙った。
    しかしこの戦いでシャマシュ・シュム・ウキンは敗死し、アッシュールバニパルはエラムに対して本格的な攻撃に乗り出した。
    エラム王テウマンはテュル・テュバの戦いでアッシリア軍に敗北し、紀元前646年スサは多大な被害を受けた。
    これによって大国としてのエラムの歴史も終わりを告げた。
    テウマンの後継者フンマ・ハルダシュ3世は尚もアッシリアに対抗を続けたが、紀元前640年にスサはアッシリアに占領されるに至った。
    しかしながら、アッシリアは国内の諸部族の抵抗に悩まされており、スサ占領も長くは続かず、しばらくしてエラム王国は復活した。
    ただ最早往時の権勢を示すことはなく、イラン高原の殆どはメディアの支配下に置かれ、エラム王国の支配地域はスサを中心とするスシアナ地方に限られた。
    539年にスサはキュロス大王率いるアケメネス朝ペルシアの支配下に置かれ、ここにエラム王国は歴史から姿を消した。
    しかし、イラン高原において最も高い文化を誇った集団の一つであったエラムの諸制度は、その後もアケメネス朝時代においても受け継がれ、行政語などとしてエラム語も使用され続けた。
       

    アッカド
    アッカド
    アッカド(Akkad)は、メソポタミア(現在のイラク)南部を占めるバビロニアの北半分の地域、またはそこに興った最古の帝国。
    南側にシュメールが隣接し、北西側にアッシリアが隣接している。
    シュメール文明を征服して、チグリス川とユーフラテス川の間を中心に栄えた。
    後にシュメールとアッカドは政治的・地理的にバビロニアと言う概念の中にまとめられて行ったが、アッカドの名はペルシア帝国に征服されるまで続いた。
    アッカドはアッカド語を話す人々が定住した。
    アッカドとは、この地域の中心的都市であるアガデの別の呼び方でもある。
    後にバビロニアは、シュメールとアッカドをあわせた領域から形成されていき、アッカド語がバビロニアの言語となった。
    サルゴンが登場するまで、アッカドについてアッカド語でかかれた記録はなかった。
    伝統的にはサルゴンがアッカドとシュメールの統一帝国の最初の支配者と位置付けられている一方で、最近の学説は前王ルガルザゲシの下でシュメール人の膨張が始まったことを示唆している。
    しかしながら、サルゴンはこの膨張をさらに推し進めて多くの地域を征服し、彼によって創造された帝国は地中海やアナトリア半島にまで到達した。
    後代のバビロニアとアッシリアの文学では、「アッカド」と「シュメール」の名がバビロニアの王号の一部として現れる。
    lugal Kengi (ki) Uru (ki)(非セム語)= sar mat Sumeri u Akkadi(アッカド語)=「シュメールとアッカドの王」 この王号が単純に「バビロニア王」を意味する。
     
    アッカド帝国
    サルゴンによって創始されたアッカド帝国は、サルゴンの孫であるナラム・シンの時代までにさらに版図を拡大させたが、各地で勃発する反乱に悩まされ続けた。
    ナラム・シンの時代に、自らの名と神を表すサインという語が並記され始めた。
    すなわち、王権の神格化が始まったと考えられる。
    しかし、ナラム・シンの死後は、アッカド帝国の指導力は衰えて各地の勢力が自立していった。

    不倫
    イシン・ラルサ時代
    イシン・ラルサ時代(-じだい、紀元前2004年頃 - 紀元前1750年頃)は、古代オリエント史における時代区分である。
    ウル第3王朝滅亡から始まる古バビロニア時代の前半、すなわちウル第3王朝滅亡からバビロン第1王朝のハンムラビ王によるメソポタミア統一までの時代を指す。
    厳密な年代は学者によって異なる。
    なお、この記事内の年代はいわゆる「中年代説」に従っている。
    メソポタミアの統一勢力であったウル第3王朝は紀元前21世紀後半には弱体化し、同王朝からイシン第1王朝が独立した。
    その後間もなくウル第3王朝はエラムによって滅ぼされ、イシン・ラルサ時代が幕を開けた。
    この時代メソポタミアの政治的な主導権を握ったのはアムル人であった。
    アムル人はすでにウル第3王朝末期からメソポタミア各地に移住・侵入しており、イシン第1王朝を皮切りに次々とアムル系王朝が成立していった。
    イシンと、次いで同王朝から独立したラルサ王朝がメソポタミアの覇権を巡って争い、最終的にラルサの勝利に終わった。
    しかし、メソポタミア中流域ではエシュヌンナ、バビロン第1王朝、マリ、そしてアッシリアが、いずれもアムル系王朝の下で強大化した。
    とりわけアッシリアのシャムシ・アダド1世は、北メソポタミア全域を支配下に治めて覇者的に振舞った。
    シャムシ・アダド1世の死後、群雄割拠状態となったが、バビロン第1王朝のハンムラビ王はライバルを次々に降し、ついにメソポタミア全域を支配下に置いた。
    このことによってバビロンがメソポタミアの中心都市としての地位を確立していくこととなった。
    こんど不倫旅行を計画してみたい。 不倫旅行ならどこに行くのがいいのだろうか。

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