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医術
下剤や利尿剤は、シュメール人の薬の大多数を占めた。
シュメール人は、尿・酸化カルシウム・灰・塩から硝石を生産した。 彼らは、ミルク・ヘビの皮・カメの甲羅・カシア桂皮・ギンバイカ・タイム・ヤナギ・イチジク・洋ナシ・モミ・ナツメヤシなどを組み合わせた。 彼らは、これらとワインを混ぜ合わせて、その生成物を軟膏として塗った。 あるいはビールと混ぜ合わせて、口から服用した。
シュメール人は、病気を魔物の征服とし、体内に罠を仕掛けられるようになると説明した。 薬は、身体内に継続的に住むことが不快であることを、魔物に納得させることを目標とした。 彼らはしばしば病人のそばに子羊を置き、そこに魔物を誘い込んで屠殺することを期待した。 利用可能な子羊でうまくいかなかったときは、彫像を使ったかもしれない。 万一、魔物が彫像へ入り込めば、彼らは像を瀝青で覆うこともした。
軍事
城壁は、シュメールの都市を防御した。 シュメール人は、彼らの都市間の包囲戦に従事した。 日干しれんがの壁は、れんがを引きずり出す時間的余裕のある敵を防ぎきれなかった。
シュメール人の軍隊は、ほとんどが歩兵で構成されていた。 そのうち軽装歩兵は、戦斧・短剣・槍を運搬した。 正規の歩兵は、さらに銅製の兜・フェルト製の外套・革製のキルトなどを着用した。 シュメールの軍隊は、古代ギリシャ同様の重装歩兵を主力とし、都市防衛に適したファランクスを編成していたことで知られる。
シュメール人は戦車を発明し、オナガー(ロバの一種)を牽引に利用した。 彼らの初期の戦車は、後世の設計の物に比べて、戦闘時においてあまり有効に機能しなかった。 幾人かが示唆するところによれば、搭乗員は戦斧や槍を運び、戦車はおもに輸送手段として役だった。 シュメール人の戦車は、二人の搭乗員が乗り込んだ四輪の装置で、4頭のオナガーを牽引に利用していた。 台車は、一つの織られた籠と頑丈な三片設計の車輪から構成されていた。
シュメール人は、投石器や単純な弓を使用した(後世に、人類は合成の弓を発明する)。
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宗教
シュメールの神殿は、中央の本殿と一方の側に沿った側廊から成っていた。 側廊は、神官の部屋の側面に立っていたであろう。 一つの端には、演壇、および動物や野菜を生贄に捧げる日干しれんがのテーブルがあったであろう。 穀物倉や倉庫は通常は神殿の近くにあったろう。 後にシュメール人は、人工的な多層段丘「ジッグラト」の頂上に神殿を置き始めた。
シュメール人の宗教は、現代宗教の多くにとって、インスピレーションの根拠・源であると考えられる。 シュメール人は、地母神であるナンム、愛の女神であるイナンナまたはイシュタル、風神であるエンリル、雷神であるマルドゥクなどを崇拝した。
シュメール人が崇拝するディンギル、すなわち神々は、それぞれ異なる都市からの関連を持っていた。 神々の信仰的重要性は、関連する諸都市の政治的権力に伴って、しばしば増大したり減少したりした。 言い伝えによれば、ディンギル(神)たちは、彼らに奉仕させる目的で、粘土から人間を創造した。 ディンギルたちは、しばしば彼らの怒りや欲求不満を地震によって表現した。 シュメール人の宗教の要点が強調しているのは、人間性のすべては神々のなすがままにあるということである。
シュメール人は、宇宙がスズ製のドームに囲まれた平らな円盤から構成されると信じていた。 シュメール人の「来世」は、悲惨な生活で永遠に過ごすためのひどい地獄へ降下することを含んでいた。
技術
シュメール人の技術には、のこぎり・革・のみ・ハンマー(つち)・留め金・刃・釘・留針・宝石の指輪・鍬・斧・ナイフ・槍・矢・剣・にかわ・短剣・水袋・バッグ・馬具・ボート・甲冑・矢筒・さや・ブーツ・サンダル・もりなどが含まれていた。
チグリス・ユーフラテス両河の平原には、鉱物や樹木が不足していた。 シュメールの構造物は、平らまたは凸の日干しれんがから成っていて、モルタルあるいはセメントで固定されてはいなかった。 平凸のれんがは(丸みを帯びて)多少不安定に振舞うため、シュメール人のれんが工は、れんがの列を残りの列に対して垂直に置くだろう。 彼らは、その隙間を瀝青・穀物の茎・沼地のアシ・雑草などで埋めるだろう。
シュメール人は、三つの主要なボートの型を持っていた。
革製のボートは、アシや動物の皮膚から成っていた。
帆掛け舟は、瀝青で防水をした特徴がある。
木製オールの付いた船は、ときには近くの岸を歩く人や動物によって上流に引かれた。
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没落
地方の諸国家が強さを増すとともに、シュメール人はメソポタミアの多くの部分で政治的な覇権を失い始めた。 アモリ人がシュメールを征服してバビロンを建設した。 紀元前2000年頃、バビロニア人が南部を支配する間に、アルメニアのフルリ人がミタンニ帝国を打ち立てた。 両者とも、古代エジプトとヒッタイトに対抗して自らを守った。 ヒッタイトはミタンニを破ったが、バビロニア人によって撃退された。 紀元前1460年頃、カッシート人がバビロニア人を破った。 紀元前1150年頃、エラム人がカッシートを打ち負かした。
遺産
シュメール人は、おそらく彼らの多くの発明のために思い起こされるであろう。 多くの権威者が、車輪や陶工ろくろの発明を彼らに帰す。 彼らの楔形文字は、私たちが証拠を持っている最古の文字体系であり、古代エジプトのヒエログリフより少なくとも50年は早い。 彼らは、最初の公式な天文学者であった。 彼らは戦車を発明し、ひょっとしたら軍の隊形を発明したかも知れない。 おそらく重要なことには、シュメール人は最初に植物と動物の両方を育てていたと、多くの学者が信じている。 前者の場合は、突然変異の草を系統的に栽培・収穫することであり、一粒小麦や二粒小麦として今日知られている。 後者の場合は、原種のヒツジ(ムフロンに似る)やウシ(ヨーロッパヤギュウ)をお産させて飼育することである。 これらの発明や革新は、容易にシュメール人を先史や歴史の中で最も創造的な文化に位置付けるものである。
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エラム
エラム(Elam)は古代オリエントで栄えた国家、または地方の名。 紀元前4000年紀半ばから紀元前6世紀までの間、幾多の古代世界の列強国を出現させた。
エラムと呼ばれたのは、メソポタミアの東、現代のフーゼスターンなどを含むイラン高原南西部のザグロス山脈沿いの地域である。 エラム人自身は自らをハタミ、又はハルタミ(Hatami、Haltami)と呼び、土地を指す際にはハルタムティ(Haltamti、後に訛ってアタムティAtamti)と呼んだ。 シュメール語のエラムはこれの転訛したものである。 メソポタミアという古代文明世界の中心地に隣接したために、その文化的影響を強く受けたが、砂漠や湿地帯によって交通が困難であったために、政治的にはイラン高原地帯との関わりが深かった。 エラム人は系統不明の言語エラム語を話す人々であり、メソポタミアで楔形文字が発明されてから程なく、エラムでも原エラム文字と呼ばれる絵文字が発明された。 この原エラム文字で書かれた文章は現在のアフガニスタンに近い地域からも見つかっており、エラム文化はイラン高原各地に影響を与えていたと考えられる。 メソポタミアの王朝はたびたびエラムに侵入して、これを支配下に置いた。 一方でエラム人もメソポタミアへの介入を繰り返し、バビロニアの王朝をいくつも滅ぼしている。 紀元前2000年紀に入ると、エラム人も楔形文字を使って記録を残すようになり、多くの情報がわかる。 エラムの歴史で中心的役割を果たした都市はアンシャン、そしてスサである。 スサを中心とした地方はギリシア人たちにはスシアナとよばれた。 エラム人の残した文化や政治制度は、メディアやペルシアに大きな影響を及ぼした。
エラム人は、オリエントのほかの地域とは異なる独特の相続制度を持っていた。 即ち、王位は親子ではなく、まず兄弟によって相続されていくのである。 この相続制度はかなり後の時代にまで継承され、異民族の侵入によっても基本的に変化しなかった。
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エラムの歴史
エラムの歴史は他のオリエントの地域と同じく、言語(文字)史料の分類に基づいて区分されている。
原エラム時代(プロト・エラム時代) 主に紀元前3200年頃から、紀元前2700年頃までを指す。 この時代既に原エラム文字による文字記録が存在するが、原エラム文字の解読が進んでいないため、基本的には考古学情報に頼って再考される。 既にスサなどの都市が形成されていた。
古エラム時代(古王国時代) 原エラム時代とまとめて扱われる事もある。 紀元前2700年頃のアワン王朝の成立から紀元前1600年頃のエパルティ(スッカル・マフ)王朝の滅亡まで頃とされる。 この時代エラム地方はアッカド帝国やウル第3王朝の攻撃を受けて支配下に入っていたが、最後には逆にウルに侵攻してこれを破壊、略奪し、ウル第3王朝を滅亡させるに到った。 文字記録が多く残され始める時代であるが、その後半期は衰退の時代であった。
中エラム時代 紀元前1600年頃のイゲ・ハルキ朝の成立から紀元前1100年頃の、イシン第2王朝のネブカドネザル1世によるエラム侵攻までの時代である。 なお古エラム時代のとの境目には諸説ある。 古エラム時代末期の衰退期から再びエラムが列強として登場する時代であり、バビロニア文化の影響を強くうけた時代である。 カッシート朝(バビロン第3王朝)を滅ぼしたが、しかし、最後はネブカドネザル1世の侵攻で大打撃を被り、再び衰退した。
新エラム時代 紀元前1100年のネブカドネザル1世の侵攻から、紀元前539年にアケメネス朝の支配下に入るまでの時代であり、研究においては更に3期に細分される。 アッシリアとバビロニアの争いにバビロニアを助ける形でたびたび介入したが、最後はアッシリア王アッシュールバニパルの攻撃を受けてスサを破壊され、大国としてのエラムの歴史は終わりを告げた。 更にその後、アケメネス朝の支配下に入り、以後エラム人による国家が成立することはなくなった。
最近様子がおかしい
セフレ関係も終わりに近いのかもしれない。
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